TOGEたろのブログ

とある大学生が日々感じたことを思いついたまま残します

6/26 言葉の力

こんばんは。

「言葉」ってすごいよね。

私は「言葉」とか「言語」が人間の最も偉大な発明だと思ってる。

だって他の生き物は使えないじゃん。

もしかしたら人間が認知できてないだけで、それぞれの動物は言語を持っているのかもしれない。でも言葉を文字にしたりは出来ない。

金曜日に犯罪社会学という講義を受けているのですが、そこで改めて「言葉」の力を実感。

とある映画の内容を交えての講義だったのですが、要約すると、裁判では陪審員が関係者の話を聞いて、その物事を判断するのですが、真実とは陪審員が理解可能なものがその物事の動機となるらしい。

つまり、とある不可解な出来事が起こったとして、それを体験した人が真実を話してもその場にいなかった陪審員にはその状況が理解できない。でもその不可解な出来事を体験しているが、その真実を捻じ曲げて陪審員が理解可能な事象にすり替えると、結局物事を判断するのは陪審員のため、後者の言い分を動機として採用し、それが真実になってしまうということなのだ。

 

これはある不可解な現象が起こった時と場面が限定されるが、私たちの身近でも十分あり得る話だと思う。

例えば痴漢冤罪のケース。自分はやっていないのに相手が触られたと主張している。本当に当たったのは電車の揺れで少し自分の袖が触れただけ。自分には全く痴漢の意識もない。でも検査で相手方の繊維は確認された。周りにそれを立証する人はいない。

ここまでくると、自分の無実を証明するのは困難であり、泣き寝入りは必至だと思う。

まさか裁判員は偶然で袖だけが当たったとは思わないし、普通に考えれば証拠も揃っており、相手も痴漢を主張している。ここで相手の女性の言い分を信じるのは合理的なことだと思う。

 

この例は例えとしてはあまりうまくないと正直思うが、「言葉」が理解可能かそうでないかで真実が変わってしまうのだ。例え真実が他にあれど、社会においてはそれが真実だとされてしまう。

 

「言葉」には大きな力があると思う。人々を感動させる力、扇動する力、人を元気づけたり、逆に不安がらせてしまうことも。

私たちはそういった「言葉」を常に状況ごとに選択して生きている。

 

使い方を間違えれば、伊藤計劃の「虐殺器官」のように、大国で暴動が発生し、世界中で戦争が起こってしまうかもしれない。今のアメリカのように。

 

 

 

 

・・・結局人を動かすのは「言葉」だと思うね。そういう意味で「言葉」は人が進化する過程で共に進化した「器官」なんだと感じます。